現在の上台峠からの金山全景。バードが「ピラミッド」と称した山並みは今も変わらない
金山町の南の玄関口として、上台の地名は古く江戸時代から見ることができます。かつては寺社や小学校などもあり、「吉村本新庄領村鑑」によると、1794年(寛政6年)には68軒379名の大きな集落であったことがわかります。ちなみに、浮世絵の世界に写楽が登場したのも同じ寛政6年のことでした。

新庄市から国道13号線を北上し、上台峠を越えると突然目の前が開け、金山の幻想的な風景に思わず驚嘆の声がもれます。今から130年前、イザベラ・バードも同じ感動を覚えたのでしょう。後に著した『日本奥地紀行』の中で、金山入りした時の様子をこう記しています。
「今朝、新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。ピラミッド型の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド型の杉の林で覆われ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。その懐に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の町である。」
もちろん現在の国道はなく、旧羽州街道が開通するのも明治13年であることから、バードが通ったのは、上台の地区民が「近道」と呼ぶさらに古の山越え道だったのかもしれません。

旧羽州街道の整備は、明治14年の明治天皇巡幸に備えて、初代県令の三島通庸が完成を急がせたものといわれています。上台の今田栄太郎さんの自宅敷地内には、その折、明治天皇がここで休憩したことを示す記念碑が建っています。
上台峠からの眺めでもわかるように、上台地区は田圃が広がり、町内でも代表的な米作地帯。上台川をはじめ、多くのきれいな沢水に恵まれ、昔は個人個人が苗代を利用して鯉を飼い、秋に売ったお金は貴重な収入になったと言います。現在ある2軒の鯉の養殖場は往時の名残り、大堰を悠々と泳ぐ鯉も上台で養殖されたものです。
歴史ある上台地区には、古くから受け継がれる「さんげさんげ(さぎさぎ)」と呼ばれる神事があります。毎年12月7日に行われ、手配の役回りの連中が白装束に身を包んだ山伏姿で、公民館にあるご神体を繰り出しお山参りするもの。かつては1週間ほどの間寝泊まりして続けられる大祭りだったといい、お供え物目当てに子供たちもたくさん集まってきたそうです。

青年音楽隊も上台地区がいかに大所帯で、しかも結束が固かったかを示す存在でした。地区に残る20歳前後の青年全員がメンバーに参加した、今でいうブラスバンドで、戦地に出征する地区民を見送る際のはなむけとして、演奏されていました。地区の一番奥、峠の麓にある熊野堂は「おくまん様」と親しまれ、守り神として今も住民の信仰を集めていますが、「上台から戦死者が一人も出なかったのは、音楽隊とおくまん様のおかげだ」と、、今回上台地区についてお話しをお聞きした区長の正野正次さんは言います。
改築はしているものの、骨組みは江戸時代からそのままの家が点在する古い家並み。その道端に佇むと、イザベラ・バードと連れが乗った馬の蹄の音が、明治天皇行幸の華やかな隊列の足音が、そして友を戦地に送った音楽隊の奏でるメロディーが、時を越えて重なり合い聞えてくるようでした。
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